映画の紹介が多いこのアデジャパブログですが、
便乗してみます~
とはいえ、映画はあまり見ない(断然DVD派!)ので、
今、私が読んでるこの本、
「宮崎アニメの暗号」。
を。
老若男女、国籍問わず、幅広い層に支持されている宮崎アニメですが、
週末とかに宮崎作品がテレビでやってたりすると、
思わず見ちゃう!という人は結構多いはず。
かく言う私も好きですね、宮崎アニメ。
特にラピュタとナウシカでしょうか。
私のような宮崎ファンなら特にそうですが、
宮崎アニメを見たとき、
この場面、この登場人物、この描写には
どんな意味がこめられているのだろう??
と考えてみたことはありませんか?
私は楽しめればいいやと思ってしまう方なので、
考え出してもすぐに
もーやーめた、となるパターンがわりと多いです))^^;
ですがこの本は、そんな宮崎アニメに込められた奥深~い意味(暗号)を
解きほぐそう!という趣旨で書かれています。
著者の青井さんは、宮崎作品の魅力にせまるために、
序章の中でこんな宮崎駿の言葉を引いています。
―通俗作品は、軽薄であっても真情あふれていなければならないと思う。
入口は低くて広くて、誰でも招き入れるが、出口は高く浄化されていなければならない。
貧乏ゆすりの肩代わりや、低劣をそのまま認めたり、
力説したり増幅するものであってはならない。
ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。
ぼくには観客蔑視としか思えないのである。
「宮崎駿『出発点〔1979~1996〕』徳間書店」
この前後の青井さんの言葉を読めば分かるのですが、
宮崎アニメの中には見えない段差がうまく組み込まれていて、
低く広い入口から宮崎ワールドへと入ってきた人間が、
作品を通していろいろなことに気づき、考え、感じるなかで、
出口を出るときには入口よりも一段高い段差を越えられるようになっている。
そんな人間的成長を宮崎アニメは視聴者に求めている!
というのが青井さんの主張なのです。。。
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どうしてこんな話をこのブログでしたのかいえば、
かの宮崎駿と同じように、
ある世界にいる人間、あるいはその世界を作ったり
そこにコミットしたりする人間は
その世界の入口と出口の高さと広さを常に意識しなければいけないなぁ、、
と感じさせられたから。
アデオがやってるHIV/AIDSやアフリカに関する活動の入口は
他の多くの人にとって低くて広いか??
出口はアデオの場合、宮崎アニメのように高くて浄化されている
必要はないし、もしかしたら出口はないのかもしれないけれど、
社会の中の誤ったor偏った見方によってその出口が、
不必要に高くなっていたり、変にゆがめられたりしていないか?
”入口・出口に意識的たれ。”
こんなことを教えられた気がします。
よかったら読んでみてくださいね~「宮崎アニメの暗号」。
かなりはまりますよw
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